流罪による越後への道中に辻徳法寺の先祖である辻源左衛門時国(つじげんざえもんときくに)宅へ止宿された親鸞聖人は、源左衛門夫婦に夜通し説法をされ、近くに住んでいた経田屋太兵衛の老婆も襖の外でその説法を聴聞していた。翌朝、配流地の越後への出発に先立ち、経田屋を訪れた親鸞聖人へ老婆が串柿を差し上げたところ、聖人は御賞味された後にその柿の種を囲炉裏で焼き、「我が法末世に栄えるならば再び根芽を生ぜよ」と炉中の半焼きの種を3つお植えになり、後に3つとも芽を生じ繁茂した。これを三本柿と呼んでいる。柿の種には今もなお、焼け焦げた跡のような黒い斑点が見られる。この三本柿は実際に聖人が植えられた経田屋のあった柿の木町(現在の市姫通り)と、そのうち1本を移植した当寺院の門前の両方に繁茂しており、黒部市指定文化財となっている。

 しかし親鸞聖人が旅立たれてから約600年近く経った江戸時代の寛政年中(1789~1801)に、3本のうちの1本が強風の為に風折してしまった。その旨を本山である東本願寺へ申し上げると、「大切な霊木であるから風折の三本柿でもって聖人御流罪の御苦労の御恩を皆に知らせよ」との仰せがあり、その風折の三本柿を彫刻して造られたのが「親鸞聖人三十五才お旅立ち草鞋掛けの尊像」である。この尊像は流罪時の旅姿をされており、35歳でこの黒部の地から配流地である越後へ旅立たれる親鸞聖人のご苦労を讃えて造られたものである。

享和三年(1803)発刊『二十四輩順拝図会』より、三本柿の様子