辻徳法寺は承元の法難(注1)によって京の都から越後国・国府(現在の新潟県上越市)へ流罪となった親鸞聖人が、その道中に越中国桜井の荘(現在の富山県黒部市)にて、当寺院の先祖である辻源左衛門時国(つじげんざえもんときくに)の宅で一夜の宿を借りた事が縁となり、後に源左衛門によって「辻の道場」として創建される。

 鎌倉時代前期である承元元年(1207)3月に親鸞聖人は、流罪の身として京の都を後にし、越後を目指して近江、越前、加賀を超えて越中国へ入り、桜井の荘にお着きになった。一夜の宿を借りようとあちらこちらの家を訪ねたが誰も宿を貸す者がおらず、武士の辻源左衛門時国宅の門前に置かれた石に腰掛け、暫くお休みになっていた。そこへ源左衛門が家から出て聖人と対面するとそのお姿は耀いておられ、源左衛門夫婦(注2)は尊崇の心をもって自宅へお招きする。聖人は深くお喜びなされ、夜通し仏恩の広大なることを源左衛門夫婦に説法された。源左衛門は直ちに聖人の門弟となり祐円(ゆうえん)の法名を賜る。しかし翌日配流地の越後へ向けて旅立たねばならず、源左衛門夫婦が別れを大変悲しんだ為、聖人は「帰命尽十方無碍光如来」の十字名号を御染筆され、「汝、この名号を朝夕に拝し奉らば、我に対面の思いをなし、生涯念仏を忘るなよ。一人居て喜ばば二人と思え。二人居て喜ばば三人なりと思うべし。その内の一人は、此の親鸞なるぞよ」と懇ろにお示しされ、越後へ旅立たれた。この十字名号を御本尊として敬い奉ったのが、辻徳法寺の起源である。初めは辻の道場と称していたが、元和6年(1620)に加賀藩主三代前田利常公より辻徳法寺の寺号の許可を賜った。当寺院はこの祐円(辻源左衛門時国)を開基とし、現住職を24世として約800年以上もの間この地で親鸞聖人の教えを共に聞き、そして伝え続けている。


(注1)承元元年(1207)、親鸞聖人の師である法然上人の吉水教団が比叡山をはじめとする既存仏教教団より弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の禁止と、法然上人の門弟4人の死罪、法然上人と親鸞聖人ら中心的な門弟7人が流罪に処された事件。

(注2)作家・吉川英治の小説『親鸞』「氷雪編」において、「三日市の源左衛門夫婦」との記述がある。


享和三年(1803)発刊『二十四輩順拝図会』より、辻源左衛門時国宅前の石に腰掛ける親鸞聖人